2007年11月29日
ゴトバテンノウ
懐かしい響きです。。
後鳥羽天皇(ごとばてんのう、治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日); 在位:寿永二年(1183年)8月20日 - 建久九年(1198年)1月11日)は、平安末期から鎌倉初期にかけて在位した第82代天皇。諱は尊成(たかひら)。
安徳天皇が退位しないまま、後鳥羽天皇が即位したため寿永2年(1183年)から平氏滅亡の文治元年(1185年)まで間、在位期間が重複している。三種の神器を安徳天皇とともに平氏が持ち去ったために神器が無い場合の緊急避難措置として後白河法皇の院宣により即位した。
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河法皇の死後、関白九条兼実の働きで源頼朝に征夷大将軍の称号が宣下され、鎌倉に幕府を開いた年でもある。同7年(1196年)、源通親の娘に皇子が産まれた事で政変が起こり、九条兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追われた。
建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と承久三年(1221年)まで、3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。上皇になると殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採って、台頭する鎌倉幕府に対しても強硬的な路線を採った。
承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。わずか2ヶ月あとの7月9日、19万の大軍を率いて上京した義時の嫡男泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に遷った。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬へ、頼仁親王は備前にそれぞれ配流された。さらに、在位わずか3ヶ月足らずの幼帝仲恭天皇(当時四歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に推挙され、その父後高倉院が院政を執ることになった。
隠岐に流される直前に出家して法皇となった後鳥羽上皇は、四条天皇代の延応元年(1239年)2月20日、配所にて死去。同年5月、顕徳院と諡された。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月、院号が後鳥羽院に改められた。歴代の天皇の中で諡が改められたのは後鳥羽院のみであり、かなり例外的と言える。
(以上、ウィキペディアより引用)
いやー懐かしいですな。
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